ニンテンドーの子である僕も考えた

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090521/1242884890

うーん。
どうなんだろう。
僕は、すごく違和感を覚える。


任天堂は、ファミコンの大成功の時にも今と同じような状況になった。
スーファミで、その地位を決定的なものにした。


そのときに、フォーマットを強固にして参入障壁を上げたことが
ゲームメーカーたちを(比較的)自由で参入障壁の低かったPS陣営にとられたことを
任天堂はけして忘れていないだろう。
そういう意味で、この議論はそんなに目新しいものではない。

ゲーム = ゲームメーカーが作り出すもの

という、このエントリで提示されている、
根拠のない、漠然としたゲームメーカー業界認識(っぽいもの)こそが、
きっと、このエントリに対する、僕の感じた違和感だ。


任天堂のいまの凄みは、

非ゲーム層の取り込み
ゲーム≠ビデオゲーム

という段階からすでに上を志向しているというところだと僕は思う。


「動くメモ帳」や「メイドイン俺」なんてまさにその典型だ。
どうぶつの森」もそうだろう。


そこにあるのは、ユーザーがコンテンツを作り出す環境を構築したところだ。
広告でいうところの「全員シロートの時代」の到来という感じだろうか。


大作やブランドは残り続ける。
TVが生まれても映画がなくならなかったように。
だけど、淘汰されるだろう。
WEBが生まれて広告が変化したように。
オープンソースが生まれてシステムが変化したように。
SaaSがパッケージ型ソフトウェアを飲み込んでいるように。


それをデュポン社の事例と比べるのはちょっと違う気がするな
って思うのが、僕の意見。


宮本さんの事例で語られているように、
任天堂のライバルは「余暇を奪うもの」という定義であるとするなら
それはゲームメーカーでなくてもいいはずで、
ライバルなんて育てなくても、もうすでにたくさんいる。

きっと僕のこんなエントリを見た人も、
僕がこんなエントリを書くきっかけになった元のエントリも
任天堂のライバルだと思えば、おもしろい状況だなって思う。


限界コストが、地球の自転にかかる時間の制限をうけるなんて
考えてもみなかった時代ってなんて平和だったんだろう
なんて100年後には言われるのかもしれない。