リアリティ


何にリアリティがあって、何にリアリティがないのか。
それは環境によるものが大きい。

いま、僕は福岡にいて、ホテルに滞在をして、本を読んでいる。ご飯も食べたし、お水もある。コンビニにお弁当だって売ってるし、もし、女の子とお酒を飲みたければ、タクシーに乗って五分も行けば、お金を払えば一緒に飲める。金額によっては、それ以上のことだってできるだろう。

そんな中にいても、地震は僕の中にある。
椅子に座って、煙草を吸いながら、本を読んでいると、ふと揺れているような気がする。食事をする度に、なぜか必ず下唇を噛んでしまう。今までにそんなことがずっと続くことなどなかったのに。

僕の滞在しているホテルでは、一日中、結婚式が開かれている。僕は、今日だけで、七人の花嫁さんを見た。おそらく僕が一日に見た花嫁さんの数の最高記録だろうと思う。別になんの感慨もない。ホテルのスタッフはすごいなと思うくらいのもので、僕には何にも関係がない。
けれど、きっとその七人の花嫁さんにとっては、今日はとても特別な日で、雨が降ってしまって残念だったけど、きっと特別な日で、彼女たちの中には、きっといつまでも今日という日が残る。

僕と彼女たちは、今日の同じ時間を、少なくとも地理的には同じ地域で過ごしたのに、今日という日に関するリアリティは全く違う。
そこには明らかな断絶があり、そして、同時に本当に微細な接点がある。

僕はテレビでニュースを見る。ネットで情報を知る。メールでおはようとも言うし、おやすみとも言う。
ここにも明らかな断絶はあり、そして、同時に微細な接点もある。

僕の想像力には限界があるし、同時に思考は限定的で、いわゆる正しい見方なんて出来そうもない。それでも僕は僕の出来る範囲の事をするしかないし、出来ることをしなかったということだけは避けたい。少なくとも、僕が微細な接点を感じている範囲においては。

ここは何処なんだろうとふと思う。僕は少なくとも、僕の感じる範囲においては、東京にリアリティを感じている。僕の大事な人達が住んでいて、僕の借りている引越したばかりの部屋があり、そこにまだ電源をいれた事のないルンバが置かれていることに、僕はリアリティを感じている。