料理小説集を読んだ。

村上龍さんの料理小説集を読みました。

村上龍料理小説集 講談社文庫

僕の中には村上龍さんに対する憧れがある。
それは才能への憧れだし、村上龍さんの文章の持つ暴力性への憧れだし、
その暴力性のもつ刹那性や単純性に対する憧れでもある。


この小説が書かれた80年代はまさにバブルの時代だったし、
きっとこの物語の主人公は、等身大の憧れだったはずだ。
広告映像の仕事をし、経費で世界中を飛び回り、
美味しいものを食べたり、魅力的な女性とデートをする。
それは80年代に「広告」というものが果たした役割を考えれば
ごくごく自然な想像だろうし、少なくとも想像の延長上に会った。
バブルを知らない僕も、80年代を傍観して成長したことで、
そこに何があったのかは理解できる。ただ、その憧れは現実的でない。


僕にとって、ここにある物語は遥か昔の彼方の出来事であり、空想だ。
おそらくその空想を、まさに空虚な妄想のようなものを文章として昇華させるものが、
小説であり、物語であり、ストーリーなのだと思うけれど、
今の村上龍さんが、昭和の立身出世物語ばかりを追いかけているのは、
彼が「団塊」という日本にとって(おそらく自己にとっても)忘れ去りたい世代でありながら、
ベビーブーマーという多数派であるというジレンマのようなものなのかもしれない。


彼らは自分の親の物語は語れても、彼ら自身の物語を語れない。そこに物語はない。
彼らには未来がないが、自分たちがこのまま逃げ切れるという確信がある。
だからこそ、芸術を捨て、自分たちに向かって、自分たちの言葉でしか話をしないのだ。


僕は村上龍という作家が好きだし、憧れでもあるから、
もう一度、「現在」の物語を、美しくて汚くて強く儚い芸術が
再び彼によって作り出されるのを見てみたいと思う。